○ 掲載メディアから

毎日新聞 2016年3月21日朝刊
毎日新聞2016年3月21日朝刊オピニオンのページに、「福島原発事故5年 被災者の模索描く[記録映画 相次ぎ公開]」という特集で、『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』が、『大地を受け継ぐ(井上淳一監督)』『フタバから遠く離れて 2016総集編(舩橋淳監督)とともに紹介されました。(記事の画像をクリックすすると『土とともに』の部分の拡大画像が表示されます。)


映画撮影 No.207
日本映画撮影監督協会の機関誌「映画撮影No.207」の「インサイド」に「 『飯舘村の母ちゃんたち』を撮り続けて」が掲載されました。以下、掲載記事全文。


「飯舘村の母ちゃんたち」を撮り続けて

 撮影を始めて4年目になる。はじめて飯舘村に行ったのは2011年の5月、それまでにたくさんのジャーナリストやカメラマンが取材を開始していた。私は東日本大震災の被災地をまわり、自分なりに向き合っていこうとしたが、あまりのことの大きさに抱えきれないでいた。4月の終わり、福島県飯舘村が国によって計画的避難区域に指定され、全村避難を強いられているということをニュースで知った。
 全村避難とは、今まで暮らしてきたところを逃れ、生活も失い、家族もバラバラになる。このニュースを聞いて、私がかかわってきたパレスチナの人たちのことを思い浮かべた。  
 1948年のイスラエルの建国によって、パレスチナの人々は家も、土地も奪われ、故郷を追われた歴史がある。当時およそ70万人だった人々は、今や世界でおよそ500万人の難民となって暮らしている。
 パレスチナと原発事故は状況も違うが、ある日突然、自分の家や故郷を追われ、人生が変わってしまったことには変わらない。
 私は飯舘村に行こうと思った。3月の雨の日に通った飯舘村の印象とは違い、5月の村は山桜が咲き、鳥はさえずり、とても美しい村という印象だった。こういう村を捨てていくのはさぞかし辛かっただろうと思った。
 飯舘村村民は5月末には村を出なければならなかった。商売をしている人、勤め人は村を離れるのが早かったが、最後に残っていたのは酪農に携わる人たちだった。
 訪ねた中島信子さんの家では牛がトラックに乗せられるところだった。
「誰のせいなのよ。何のせいなのよ。くやしくてたまらない。まだまだ働ける牛なのに」
初対面の私たちに向かって、信子さんは一生懸命、涙を浮かべながら、助けを求めるかのように訴えた。横では夫の明大さんが牛をトラックまで運んでいた。信子さんの様子を見て、牛を運ぶ業者の人が気を使って出発を遅らせる。しばらくして信子さんは「いいです。見ているとつらくなるから」とあきらめたように言った。
 長谷川花子さんの牛が出される日は、酪農家では一番後だった。メディアでおなじみの家族だけに、新聞社やテレビ関係のメディアの人たちが待機していた。牛がトラックに乗せられても花子さんは涙一つ流さず気丈なところを見せた。しかし後で聞くと、花子さんは誰もいなくなった牛舎でひとり泣いたという。
 牛を飼ってきた人たちにとって牛を出す日は一番辛い日だった。私はこの日に来たことで、この人たちから離れられないと思った。追いかけていこう、撮り続けていこうと決心した。そして花子さんや信子さんなど、飯舘村の母ちゃんたちの仮設暮らしのその後を追い続けている。
 一方で、飯舘村佐須地区に住んでいた菅野榮子さんと出会った。彼女は以前から作っていた伝統的な佐須の味噌を原発事故後も残そうとしている人だと知ったからだった。早速、榮子さんを撮影させてもらうことにした。
 榮子さんたちは女性たち数人で20年以上佐須味噌作りをしてきた。佐須味噌は次第に知られるようになり、関東の人たちとつながりができた。そして原発事故が起こった。佐須味噌を残そうという関東の人たちの協力を受け、飯舘の人たちとのつながりができた。「味噌の里親プロジェクト」だった。
 原発事故後、千葉にいる娘さんの家に一時避難した後、榮子さんは伊達東仮設住宅に2011年の夏から一人で暮らしている。
 元気に働いていた77歳になる榮子さんは仮設住宅に入居してから何もする気が起こらず、部屋に閉じこもりがちだった。2011年の年末が近づいたある日、隣の部屋に飯舘村で近所に住んでいた芳子さんが入って来た。榮子さんは少しずつ元気を取り戻し、2人で畑をやることにした。
 芳子さんが仮設に引っ越してきたことで、榮子さんと芳子さんは一緒にこの困難な時期を乗り越えていこうと思った。
 私がこの2人が好きなのは、いいコンビだからだ。榮子さんはしっかり者で、自分にも厳しい人だ。芳子さんは農家のお嬢さん育ちと言われている。性格がおっとりとし、意思表示もあまりしない。この対象的なコンビが何ともいえない雰囲気をかもし出す。榮子さんが何かうまくいかなくてイライラすると、芳子さんがそうだなとうなずいて話を聞く。それだけで榮子さんは癒されるという。
 榮子さんはお彼岸やお盆のときは飯舘村に帰る。飯舘村の畑や田んぼには雑草が伸び放題にはえている。
「どこもここも荒れ放題だ。でもここが一番心の安らぐところだったんだ。この山並みを仰いで一生終わりたいと思っていたよ」と榮子さんは話す。
 飯舘村ではそれぞれの家の後ろが山になっていて、そこにはキノコや、ゼンマイ、わらびなど山の幸の宝庫だった。
「みんな自給自足の村だから、味噌を作る時期には味噌を作って、米を収穫する時期には収穫し、自分の食を確保するというのが当たり前の生活だった」そういう自然と共に生きてきた生活を失ったことは金銭には変えられないという。
 榮子さんと芳子さんは、今でも味噌作りの要請がくると、出かけて行って指導する。榮子さんは語る。
「何百年か前に作ってきた味噌が、これが飯舘の血のつながった味噌だよって、何百年かあとで凍み餅作ったらまた美味しいのができるよって。そのためにやっぱり種をまいておかなきゃなと思うよ」
 2015年、飯舘村は2016年の春から2017年の春の間に飯舘村の帰村宣言を出す方針を出した。村の除染作業は2014年から本格化し、現在宅地周辺は終わり、田畑、森林に移っている。しかしながら除染後もあまり線量が下がらなかったり、場所によっては数値が以前と変わらなくなっているところもあると言う。
 放射能の脅威も完全に抜けない中、それぞれ村民の選択が迫られている。酪農家だった花子さんは今でも仮設で両親と別棟ながら一緒に住んでいる。将来は両親のことを見なければならないと考えている。両親にとっていい方で決めるという。信子さんの家は居住制限区域だが、実際は帰還困難区域に指定されてもいいほど線量が高い。信子さんの故郷に対する思いは強く、まだ考えあぐねている。
 後期高齢者だという榮子さんと芳子さんは、自分たちの終の場所を探そうとしている。それぞれがこの原発事故によって180度人生が変わってしまった。今まで酪農や農業で苦労をしてきてこれからだと思ってきた人たちが多い。
 この数人の飯舘村の母ちゃんたちの将来が不透明な人生を描きながら、彼らの苦難とそれに負けない力強さに圧倒されながら、撮影を続けている。


『映画撮影』NO.207 (日本映画撮影監督協会・2015.11.15発行)


 

 

 


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